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秋田地方裁判所 昭和51年(ワ)246号 判決

原告

門脇浩

原告

門脇節子

原告

門脇浩子

右法定代理人親権者

門脇浩

門脇節子

右原告ら訴訟代理人弁護士

加賀谷殷

被告

秋田県厚生農業協同組合連合会

右代表者代表理事

佐藤秀一

右訴訟代理人弁護士

内藤徹

主文

原告らの請求を棄却する。

訴訟費用は原告らの負担とする。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告は、原告門脇浩子に対し二二〇〇万円、原告門脇浩、同門脇節子に対し各三三〇万円及びこれに対する昭和五一年八月二二日から支払いずみまで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

3  仮執行宣言

二  請求の趣旨に対する答弁

主文と同旨

第二  当事者の主張

一  請求の原因

1  原告浩子は、原告浩、同節子の長女として、昭和四九年三月五日出生した女児である。

被告は、秋田県一円を対象区域として医療保健施設の設置及び経営を事業内容とし、鹿角市において鹿角組合総合病院の名称で総合病院(以下「被告病院」という)を経営し、産科医、眼科医等を雇用して医療行為に当たらせている。

2  原告節子は、昭和四九年三月五日、被告病院において、妊娠八か月(出産予定日昭和四九年五月二一日)で原告浩子を出産した。

原告浩子は、出生時の体重が一三五〇グラムのいわゆる未熟児であつたため、直ちに保育器(クベース)に収容され、体重が二八〇〇グラムになつた昭和四九年五月九日まで六六日間もの長期間にわたり漫然と多量の酸素の投与を受け、そのため未熟児網膜症にかかり、両眼とも失明した。

3  未熟児網膜症は保育器内の未熟児に投与する酸素の過剰、あるいは長期間にわたる酸素の投与により発症するのであるから、酸素投与はできるだけこれを避け、新生児に呼吸障害や強度のチアノーゼがある場合などに限り、必要最小限度の期間及び量を投与すべきである。また、仮に未熟児網膜症にかかつたとしても、早期に発見し、早期に適切な治療を施せば失明の結果を回避することができるのであるから、担当の医師は未熟児網膜症発生のもつとも危険な期間である生後三か月間は特に注意をして、眼科医の協力を仰ぎ、一週間ごとに定期的に眼底検査をして早期発見に務め、万一未熟児網膜症にかかつたことを発見したときには、小児科医、眼科医が一体となつて適切な処置を施し、その重症移行を防ぎ、あるいは副賢皮質ホルモン剤の投与、ACTHや光凝固法等による治療を行うべき義務がある。更に、酸素投与を受けた未熟児が退院する際には、担当医師は保護者に対し未熟児網膜症のおそれのあること及び退院後も一定期間は眼底検査を受ける必要のあることを説明すべきである。

ところが、被告病院の担当医師は、前記のとおり、原告浩子に対し六六日間もの間、漫然と酸素を投与して未熟児網膜症を発症させ、退院時まで一度も眼底検査を行わず、原告浩子を失明させたのであつて、過失のあることは明らかである。

4(一)  原告浩、同節子及び同浩子と被告との間には、昭和四九年三月五日、被告病院が未熟児の原告浩子を看護保育することを目的とする準委任契約が成立し、被告病院は担当医師を右債務の履行補助者としてその履行に当たらせていたところ、右担当医師が前記のとおり原告浩子に両眼失明の傷害を負わせたのであるから、被告病院は債務不履行により原告らの受けた損害を賠償すべき義務がある。

(二)  被告は右担当医師を雇用しており、右医師は前記過失により原告浩子に両眼失明の傷害を負わせたのであるから、民法七一五条により原告らの受けた損害を賠償すべきである。

5(一)  原告浩子の慰謝料

原告浩子は生涯光を知ることができない身体となり、就職、結婚等に際しこれから受けるであろう苦痛は察するに余りある。この精神的苦痛を慰謝するに足りる金額は二〇〇〇万円を下ることはない。

(二)  原告浩、同節子の慰謝料

原告浩子の父母である右原告両名は、大病院である被告病院を信頼して我が子を託したにもかかわらず、医師の初歩的、基本的な注意義務懈怠により、我が子を失明に至らせたのであつて、その苦痛に対する慰謝料は各三〇〇万円が相当である。

(三)  弁護士費用

原告らは被告の債務不履行ないし不法行為のため本訴の提起を余儀なくされたが、原告浩子は二〇〇万円、原告浩、同節子は各三〇万円が右行為と相当因果関係にある損害である。

6  よつて、原告らは被告に対し、請求の趣旨掲記の判決(遅延損害金の起算日は訴状送達の翌日である)を求める。

二  請求の原因に対する認否及び抗弁等

1  請求の原因に対する認否

請求原因1の事実は認める。同2の事実のうち、原告節子が主張のとおり原告浩子を出産したこと、原告浩子が失明したことは認める。原告浩子が未熟児網膜症にかかつたことは不知。その余の事実は否認する。原告浩子に酸素が投与されたのは、後記のとおり二九日間に過ぎない。同3は争う。同4の事実のうち、原告らと被告との間で主張の契約が結ばれたことは認めるが、被告に損害賠償責任のあることは争う。同5は争う。

2  未熟児網膜症について

未熟児網膜症は在胎二八週未満、生下時体重一二〇〇グラム以下の極小未熟児に頻発する疾患であるが、これが酸素と関係のあることは否定できないとされるものの、酸素の投与がその発症や進行に関係がある場合もあれば、酸素の欠乏が誘因となることもあり、また酸素に全く関係なく発症する場合もあり、酸素の供給量と未熟児網膜症発生機序との関連もいまだ解明されておらず、結局、その最も大きな原因は児の未熟性にあるというほかはないのである。我が国においては、昭和三九年、日本眼科学会のシンポジウムにおいて、植村恭夫医師が未熟児の生存率の向上とともに未熟児網膜症発症の危険のあることを警告して、その眼科管理の重要性を提唱したのを契機として、一部の研究機関や病院において、未熟児の眼科管理が注目されるようになり、昭和四二年には、天理病院の永田医師が未熟児網膜症の治療として、光凝固法の施用を試み、その後、逐次研究が進められてきたのであるが、昭和四九年三月当時は、これによりようやく未熟児網膜症の診断・治療についての基準が成立したとされる厚生省特別研究班による「未熟児網膜症の診断及び治療基準に関する研究」もいまだに発表されておらず、また右光凝固法(冷凍凝固法を含む。以下「光凝固法」という)も追試の段階にあつたにすぎず、原告の主張する副腎皮質ホルモン(これは副作用が強いとされる)等の薬物による治療については否定的な見解が大勢を占めており、当時は確立した治療法は存在していない状態であつた。

原告は、眼底検査義務を主張するが、未熟児の眼底を検査することは高度の技術と設備が必要であり、一般眼科医はもちろんのこと、大学の眼科教室においてすら経験者は少なかつたのが実情であつた。しかも、眼底検査はあくまで未熟児網膜症の早期発見が目的であるから、その前提として未熟児網膜症の治療法が確立していることが必要であり、確立した治療法がない限り眼底検査をすること自体無意味なことになるのである。殊に、光凝固法の施用には設備とともに経験のある技術者が必要であるが、東北地方の辺地でそれを望むのは到底無理であつた。

3  原告浩子の失明について

原告節子は初産のうえ、三〇歳の高齢出産であつたところ、昭和四九年二月二六日、妊娠二八週で破水して被告病院に来院し、担当の産婦人科科長牧野俊重医師(以下「牧野医師」という)が治療を加えたが、同年三月四日午後九時、陣痛がきたため、牧野医師もやむなく翌五日帝王切開により原告浩子を出産させたのであるが(在胎二八週六日)、右出生時、原告浩子はアプガール指数五点、足裏にチアノーゼありという極めて危険な状態にあり、生下時体重も一三五〇グラムに過ぎず、脳性麻痺、突発性呼吸停止予防のためには、保育器に収容し、酸素の投与をしなければ、生存自体が危ぶまれる事態にあつた。その後、原告浩子の体重も一〇六〇グラムを最下限として少し上がつてきたので、牧野医師はその時点で直ちに酸素の投与量を減らし、昭和四九年四月二日、体重が一三五〇グラムまで回復したのを確認して酸素の投与を中止した。酸素の投与量及び投与の期間は次のとおりである。

昭和四九年三月五日から同年三月一一日まで 四リットル(一分当たり、以下同じ)

同年三月一二日から同月二七日まで 三リットル

同年三月二八日 二リットル

同年三月二九日から同年四月二日まで 一リットル

原告は、原告浩子が未熟児網膜症にかかつたと主張するが、前記のとおり、酸素と未熟児網膜症の関連性も十分に解明されてはいないうえ、そもそも未熟児網膜症と診断するためには、病変活動期の眼底の経過観察が必要であり、原告浩子の失明の原因を未熟児網膜症にあると決め付けることはできない。

4  被告病院及び牧野医師の責任について

被告病院は東北地方の辺地にある病院であり、総合病院とはいつても医師すら満足に揃つていない中にあつて(牧野医師は産婦人科の担当であるが、小児科医が退職したため、昭和四七年九月からは未熟児保育をも担当せざるをえなくなり、また眼科も専任の医師はおらず、毎週火、水(星兵仁医師)、金、土(開米みつ江医師)に岩手医大から出張診療にきていた)、牧野医師は、母子共に健全な状態における出産、また未熟児出産に対しては、第一に児の生命の維持、第二に脳性麻痺による知能障害発生の防止、第三に未熟児網膜症を初め、未熟性が原因となつて発生する諸疾患の防止のために最善の努力を重ねてきた。牧野医師は産婦人科の担当ではあつたが、未熟児保育をも担当することになり、これの関係文献に当たつて勉強をしてきたが、少なくとも保育器内の酸素投与量が一分間四リットル、濃度三〇パーセント以下であれば未熟児網膜症にはかからないとするのが、当時の医学界における一般的な知見であつたのであり、また未熟児の眼に異常が出るのは生後二週ないし八週間の間であり、保育器から出た後でも眼底を見ることはできるとされていたのであつて、牧野医師も右知見により原告浩子の看護保育に当たつてきたのであり(同医師は被告病院において約五〇名の未熟児保育の経験があるが、未熟児網膜症発症例は皆無であつた)、仮に原告浩子が未熟児網膜症にかかつたとしても、これを予見することは到底できなかつた。

原告は、漫然と酸素を投与したため未熟児網膜症が発症したと主張するが、牧野医師のした酸素の投与は前記3において述べたとおりであり、また酸素の投与量と未熟児網膜症発症の関連性についてもいまだ解明がなされていないばかりか、原告浩子の場合は、まず生命の危機を救わなければならなかつたのであつて、牧野医師の行つた酸素投与には原告主張のような落度はありえない。

次に、原告は眼底検査義務について主張するが、前記2において述べたとおり、右検査のためには高度の設備、技術が必要であるほか、まず大前提として確立した治療法の存在していることが必要であるが、このいずれも当時の被告病院にはなく、牧野医師が有していた医師としての一般的医療水準の知見においても、原告主張の右義務を医師が負うことは求められていなかつた。

なお、原告浩子に対する治療は国民健康保険によるものであるが、光凝固法は当時保険診療では認められていないものであつた。

三  抗弁に対する認否

牧野医師に過失があつたことは、前記一において主張したとおりである。

第三  証拠〈省略〉

理由

一請求原因1の事実、同2のうち、原告節子が主張のとおり原告浩子を出産したこと、原告浩子が失明したこと、原告らと被告との間で請求原因4(一)の契約が成立したことは、当事者間に争いがない。

二原告浩子の出生と失明の経過

〈証拠〉によれば、以下の事実が認められる。

原告節子は、昭和四八年四月、原告浩と結婚し、昭和四九年二月二六日当時、妊娠八か月の身であつたところ、雪道で転んだことがもとで破水したため、同日被告病院に入院し、担当の牧野医師から早産防止の治療を受けていたが、同年三月四日午後九時ごろ陣痛が始まり、翌五日午前一時過ぎには胎児の手足の一部が母胎から出かかるような状態となつたため、同医師はこのまま放置すると、原告節子は高齢(昭和一八年六月生まれ)の初産でもあり危険と判断し、直ちに帝王切開に踏み切り、同日午前三時三五分、原告浩、同節子の長女である原告浩子が出生した。右出生時、原告浩子の状態は体重一三五〇グラム、体温三四・八度、在胎週数二八週六日(出産予定日同年五月二一日)、アプガール指数五、仮死状態にあり、牧野医師らは蘇生術を施したが、このままの状態では生命に危険があるため、直ちに原告浩子を保育器に収容し、酸素投与を開始した。右酸素投与の量及び期間は別表のとおりであつた(ただし、酸素濃度は四リットルで二六・六パーセントであつた)。

牧野医師が酸素の投与量、期間を右のとおりに決めたのは、投与の酸素濃度が三〇パーセント以下ならば未熟児網膜症発症の危険がないと学んでおり、また原告浩子の体重の増減や体温、摂取したミルクの量等全身状態を勘案したうえのことであるが、原告浩子の体調が安定し、もはや大丈夫と判断して酸素の投与を中止した時点における同原告の体重は生下時体重とほぼ同じであつた。

その後、原告浩子は牧野医師や看護婦らの看護保育を受けて順調に育ち、昭和四九年五月三日には保育器から離れ、同月九日退院した(体重二八〇〇グラム)。

右退院前、原告浩は、牧野医師から酸素は少なめにしか投与してないから眼は大丈夫だが(未熟児網膜症の発症はないということ)、不安ならば眼科医に診てもらうようにとの指示を受けていたため、退院後、時折懐中電灯で原告浩子の目を覗いたりしていたが、当初は浩子の目が光に反応を示していたので大丈夫と思つていたところ、退院後二、三週間経つたころから右反応が感じられないように思われ出したので、昭和四九年五月二九日、被告病院の眼科で開米みつ江医師(以下「開米医師」という)に受診したのであるが、更に検査の必要があるとされて、同年六月五日、小林岩手医大講師の出張診察日(星医師の代診)に再受診したが、瞳孔が散瞳薬に反応しなかつたため、明確な診断は下せなかつたものの、眼に異常が発生していることだけは看取されたので、同医師から更に再検査を必要とする旨指示を受け、同月一二日、星兵仁医師(以下「星医師」という)に受診した結果、同医師は眼底全体に異常な増殖組織があつて白つぽくなつており、すでに網膜が剥離して絶望の状態にあると判断した。なお、星医師はそれまでの経過を診ていないため、原告浩子の右症状を未熟児網膜症と断定することは避けたが、未熟児網膜症であることはほぼ間違いなかろうと考えており、しかも六月五日の小林医師の観察結果とも照らし合わせて激症型でないかとも疑つていた。そして、眼底を再確認したうえで、岩手医大に送ることとし、浩子を連れてきた母の原告節子に対し、来週もう一度来るようにと指示したが、右節子は被告病院には再び来院せず、秋田大学や岩手医大に受診したが、右浩子の失明は回復しなかつた。

右認定事実によれば、原告浩子は未熟児網膜症にかかり、その結果失明に至つたということができる。

三未熟児網膜症とその治療法等について

1  概要

〈証拠〉によれば、以下の各事実を認めることができる。

未熟児網膜症は、未熟児(生下時体重二五〇〇グラム以下の新生児)、特に生下時体重一五〇〇グラム以下、在胎期間三二週以下の新生児に発症頻度が高いとされている眼の疾病であり、網膜血管の異常増殖により、重症の場合には網膜剥離を起こして失明ないし視力障害を残すものであるが、その発生機序については、発達途上の網膜血管が酸素に敏感に反応して収縮し、その結果、低酸素状態となつた領域において、異常な血管新生や硝子体への血管進入を引き起こし、ついには網膜剥離を来たすとする、未熟児の網膜血管の未熟性を基盤とし、酸素が引き金の役割を果たして発症するとの説が有力である。しかし、酸素の投与を全く受けていない新生児や時には成熟児にも発症することがあり、その発生原因はなお完全には解明されていないとされている。

右疾病が歴史に登場したのは、一九四二年、テリーにより症例報告がなされたのが最初であるが(当時、テリーはこれを水晶体後部線維増殖症と称した)、その後、未熟児の看護保育技術の発達とともに患者が急増するようになり、研究が進められた結果、その発症には酸素が関係しているとされ、一九五四年、アメリカンアカデミーのシンポジウムにおいて、従来、八〇ないし一〇〇パーセントの濃度のものが投与されていた酸素を四〇パーセント以下に抑えるよう勧告がなされ、以降、アメリカにおいては右患者が激減した。ただ、未熟児の看護保育に当たつては、酸素投与を抑え過ぎると、呼吸障害症候群による死亡や脳性麻痺が発症する危険があり、右酸素投与量の制限については、なお問題があるとする意見も強かつた。

我が国においては、未熟児の看護保育技術が後れていたため、これが問題とされるようになつたのはずつと遅く、昭和三九年、植村恭夫医師が未熟児の眼科管理の必要性を提唱したのを契機として、右疾病についての実質的な調査研究が始まつたといわれており、その後、大病院や研究機関で未熟児の眼科管理に力が入れられるようになつてきた。

また、未熟児網膜症の治療については、当初のころは副腎皮質ホルモン、ACTH等薬物投与による方法が試みられていたが、その後の研究でこれらは薬効がないか、又は副作用が激しくて治療法としては疑問であるとされるようになり、昭和四二年、天理病院の永田医師が成人の糖尿病性網膜症の治療に用いられていた光凝固法を未熟児網膜症の治療に適用して劇的な効果を挙げたことから、光凝固法が未熟児網膜症の治療法として注目を集め(その後、山下由紀子医師らにより原理的には光凝固法と同じ冷凍凝固法も未熟児網膜症の治療に用いられるようになつた)、以降、右治療法の研究とともに未熟児網膜症発症の有無及びその症状の程度の確認のための眼底検査についての研究開発が各地の先進的な病院や研究機関で行われるようになつた。

ちなみに、原告浩子が出生した当時までに(ただし、昭和四八年一二月末とする)公表された未熟児網膜症に関連した文献中、本件訴訟において証拠として提出されている主なものは別紙「未熟児網膜症関係の文献一覧表」掲記のとおりである(ただし、外国の文献は除く)。

2  光凝固法及び未熟児網膜症の診断基準等について

前掲各証拠によれば、以下の事実を認めることができる。

前記認定のとおり、光凝固法は昭和四二年に永田医師により施用されたのが最初であるが、これは網膜の無血管帯と血管帯との境界領域をクセノンランプ等を光源とする光で焼灼凝固し、これにより血管の増殖を防ぐものであるため、未熟児網膜症の治癒というよりは症状の進行を停める効果をもつものである。ただ、未熟な網膜を焼灼するものであるため、網膜に組織的な変化を来たし、後日どのような影響(後遺症)をもたらすか予測もつかず、また仮に光凝固法が未熟児網膜症の治療に効果があることを肯定する立場を採るとしても、未熟児網膜症は自然治癒率の極めて高い疾病であることが明らかになつてきたため、どのような症状の場合に、またどのような進行段階においてこれを施用すべきかについて試行錯誤的な研究が行われてきた。

未熟児網膜症の臨床経過等については、我が国では一般にオーエンスの分類法(これは未熟児網膜症の臨床経過を活動期、寛解期、瘢痕期に分け、更に活動期を血管期、網膜期、初期増殖期、中等度増殖期、増殖極期に、また瘢痕期を後遺症の程度により五段階に分類した)が用いられていたが、眼底検査技術の発達により症状の進行具合をより正確に把握することができるようになり、また治療法として光凝固法が登場したため、その適応、限界等を定めるうえで、眼科医の間でその病期の認識が必ずしも一致しない等の意見が強まつてきたため、昭和四九年、眼科・小児科・産婦人科関係の権威者により構成された厚生省特別研究班により「未熟児網膜症の診断および治療基準に関する研究」が行われ、昭和五〇年、これが発表された。これによれば、未熟児網膜症の臨床経過及び予後を別紙のとおり分類し、治療の基準が示されている。

次に、未熟児網膜症発症の有無及びその症状の程度を確認するための眼底検査についても、それに用いられる器具の進歩もさることながら、これを施行するためには、高度な技術が必要とされるため、まず一部の先進的な眼科医の間で研さんが積まれてその技術習得がなされ、次第にこれが普及して行つたのであるが、眼底検査の施行時期についても統一的な基準がなかつたところ、右「未熟児網膜症の診断および治療基準に関する研究」においては、「一八〇〇グラム以下の低出生体重児、在胎期間では三四週以前のものを主体とし、生後三週以降において、定期的に眼底検査を施行し(一週一回)、三か月以降は、隔週または一か月に一回の頻度で六か月まで行う。発症を認めたら必要に応じ、隔日または毎日眼底検査を施行し、その経過を観察する。」としてこれが示され、ようやく一般の眼科医が従うことのできる標準的な基準が成立したのである。眼底検査は未熟児網膜症の発症の有無及びその進行程度を確認し、治療の要否及びその適期を決定するために行われるものであるから、未熟児網膜症の治療法として効果的とされる光凝固法が登場してその重要性の比重が高まつたといえる。

なお、外国においては、現在でも光凝固法の有効性については疑問があるとされ、殆ど施用されていないといわれている。

四担当医師の責任について

1  被告病院における医療体制

〈証拠〉及び被告病院に対する調査嘱託の結果によれば、以下の事実が認められる。

被告病院は、もともと地域の一般的な医療を担当するために設立された病院であつて、いわゆる特別な分野の疾病を専門的に研究治療することを目的とするものではなく、したがつて総合病院として各科を揃えてはいたものの、その実態は、例えば小児科については、昭和四七年九月、担当の医師が退職したが、補充がつかず、やむなく未熟児の看護保育は産婦人科の牧野医師が担当せざるをえなくなり、同医師は急きよ文献等で未熟児の看護保育の勉強をしてこれに当たつていたのであり、眼科についても、専任の医師がいないため、被告主張のとおり、二人の医師が出張で診療に当たつてきた有様であつた。しかも、右出張の眼科医のうち、開米医師は医師免許をとつたばかりの新人で、未熟児の眼底検査もできず、また星医師は昭和四四年大学を卒業し、ある程度の経験もあり、未熟児の眼底検査もできる技術を持つ医師であつたが、昭和四九年五月中旬から同年六月八日にかけて、ヨーロッパで開かれた学会に出席していたため、その間、被告病院への出張診療もできなかつた(前記のとおり、その間、代診として小林医師が週一回出張診察をしていた)。

また、その設備についても、例えば未熟児の眼底検査により、未熟児網膜症の発症等をより早く、より正確に確認するためには、せめて網膜の周辺部まで見ることができる倒像鏡を用いるのが専門家の間では当然のことになつていたのであるが、右倒像鏡すら当時の被告病院にはなく、もちろん眼科医と提携して未熟児の眼底検査を定期的に行うことなどは、少なくとも当時の被告病院においては到底期待できないことであつた。

2  牧野医師の未熟児網膜症に関する知見等について

〈証拠〉によれば、以下の事実を認める。

牧野医師は、前記のとおり、昭和四七年九月、被告病院の小児科医が欠員になつたため、いわばピンチヒッターとして未熟児の看護保育を担当させられたのであるが、右担当するに当たつては、関係文献により改めて知識を習得し直し、その結果、未熟児網膜症についても一応の知識を得、未熟児に対する酸素の投与も、四リットル以下(一分当たり)ならば、その濃度も三〇パーセント以下に抑えることになり、未熟児網膜症の発症は防ぎうると考えて、これに従つて未熟児の看護保育に当たつてきた。

牧野医師が昭和四七年九月二七日から昭和四九年三月三〇日までの間に、担当した新生児のうち保育器に収容された者の数は四九名(うち未熟児は四六名。ただし、原告浩子を除く)、また酸素を投与したのは右のうち約半数であるが、未熟児網膜症の発症をみたものはなく、また被告病院の体制が前記のとおりのような状態であつたため、もちろん定期的な眼底検査を行つてはいなかつたが、特に問題があると思われた児については眼底検査を依頼する方針でいたところ、右新生児のうち眼底検査を依頼したのは、昭和四八年七月一八日に出生した生下時体重九七〇グラム、保育器収容期間八七日の児一人のみであつた。

牧野医師は、未熟児網膜症は生後二ないし八週目位に発症するものとの知識を有していたため、保育器に収容した新生児も通常は保育器から出た時に眼底検査をすれば足りると考えていたのであるが、原告浩子の場合は、酸素の投与量も前記のとおり低めに抑えたと自負しており、また原告浩子の眼も光に反応していたので、大丈夫と考え、更に当時は星医師が外国出張で留守でもあつたところから、眼底検査の必要はないと判断し、保護者に対し注意的な指示を与えたのみで、浩子に対する眼底検査を行わなかつたのである。

なお、牧野医師には、当時、未熟児網膜症について確立した治療法があるかまでの知識はなかつた。

また、牧野医師は、昭和四九年四月三〇日付けをもつて被告病院を退職したのであるが、同年五月三日ころまでは、気になる二、三の患者については診察を続けていたのであり、原告浩子もその中の一人であつた。

3  担当医師の酸素供給管理上の過失について

原告浩子の場合、前記認定のとおり、極めて危険な状態で出生したのであり、同児を保育器に収容するとともに、酸素を投与する必要のあつたことについては、これを否定する証拠はない(原告らもこの点までを争うものではないであろう)。ところで、牧野医師が原告浩子に対し投与した酸素の量及び期間は前記認定のとおりであるが、牧野医師は、別紙「酸素投与量及び体重経過表」を見ても分かるとおり、例えば体重のみをもつて機械的に投与の酸素量を決めているわけではなく、原告浩子の全身状態を観察、考慮したうえで、これを決めたというのであつて(ちなみに、浩子の体重が生下時体重まで回復したのは、ちようど酸素が投与された期間である二九日もかかつているのであるが、これは通常の新生児の体重が出生後一旦減少して回復するのに必要な日数に比べるとかなり遅いといわなければならないし、また浩子の体温も前掲甲第一号証、第四号証、牧野医師の証言によれば、三四ないし三五度辺りを前後していて、新生児の平均体温に比べると随分低く、看護記録にも再三、四肢に冷感ありと記載されているのである)、特に、全身状態が不良の未熟児に対し必要な酸素を投与しなければ、生命の危険や脳障害を起こす結果となること及び牧野医師の投与した酸素の量、濃度も生後一週間の特に危険な時期に一分当たり四リットル(二六・六パーセント)を最高とし、その後は漸次減らされており、これは当時、未熟児網膜症発症との関連で要注意とされていた酸素濃度限度三〇ないし四〇パーセントと比べると低い濃度であつたことをも考え併せると、牧野医師のとつた酸素投与についての措置には一応の合理性が認められるのであつて、医師の裁量の範囲内にあるというべきであり、これについて牧野医師に過失責任を問うことはできないといわなければならない。

4  眼底検査の懈怠について

前記のとおり、未熟児網膜症発症の有無及びその症状進行の程度を確認するためには、未熟児の眼を観察する、眼底検査が必要である。

ただ、眼底検査を行うためには、前記のとおり、倒像鏡等の器械設備とともに(現在では、立体双眼倒像検眼鏡等格段に進歩した器械が用いられるようになつている)、これを行うことができる技術を持つ眼科医が必要であるが、被告病院には専任の眼科医もいないし、倒像鏡もなく、また出張診療にきていた二人の眼科医のうち一人は右技術を持つていない有様であつた。もつとも、前掲星証言によれば、当時は岩手医大においてすら、眼科医局員二三名中、五名位しか未熟児に眼底検査を行つて未熟児網膜症の正確な診断をすることができる医師はいなかつたことが認められる。

ところで、眼底検査の目的は、右のとおり、未熟児網膜症発症の有無やその進行状況を確認することにあるが、眼底検査自体には何ら治療効果はないのであつて、それは未熟児網膜症に対する治療の要否及び治療行為の施用時期(適期)を決定するために行うものであり、したがつて眼底検査義務を肯定するためには、眼底検査を行うこと自体が一般的医療水準となつていなければならないことはもちろんであるが、未熟児網膜症に対する確立した治療法が存在していることが大前提として必要である。確立した治療法もないのに(確立した治療法がある場合に初めて医師に治療義務が生じる)眼底検査義務のみを課しても無意味であるからである。

そこで、昭和四九年当時の未熟児網膜症に対する確立した治療法の有無について検討するに、すでに認定したとおり、昭和四二年、永田医師により光凝固法が未熟児網膜症の治療に応用され効果を挙げて以来、各地の研究機関、先進的病院において、これの追試研究が次々と行われて、その成果も発表され(別紙文献一覧表参照)、昭和四九年当時は、これら研究者の間では、追試段階を終え、光凝固法は安全性ないし長期的予後に問題はあるものの、未熟児網膜症に対し唯一の有効な治療法であるとの確信がほぼ固まつていた時期といえるのであるが(ただし、これは日本においてのことであり、外国でこれが殆ど行われていないのは、前記認定のとおりである)、少なくとも当時においては、一般の臨床眼科医が診断、治療をするに当たり拠ることのできる標準的な基準すら存在しなかつたばかりでなく(未熟児網膜症の中に、臨床経過、予後の点から、従来の分類法にあてはまらない経過をたどるもののあることが分かりかけてきたのもこのころのことであり、前記厚生省の特別研究でも、ラッシュタイプについては、なお今後の検討の余地があるとされている)、臨床医の実践としての医療行為は、当該医師の置かれている社会的、地理的その他の具体的環境、条件によつて人的、物的設備、組織の違いなどによつて差異があると考えられるところ、当時の東北は、日本の中でも医療の面においては、かなり遅れている地域を多く抱えている地方とされており、〈証拠〉によれば、光凝固法の器械も岩手医大ですら昭和四七年一一月に備え付けられたのであり、そのころ東北全体で右器械は三台しかなかつたこと、右医大においては昭和五一年に未熟児網膜症に対する治療として光凝固法が初めて行われたこと、昭和四九年当時も秋田県下(ただし、北部は除く)において、光凝固法の装置を有していた病院は秋田大学病院のほか一病院のみであつたことが認められるのであつて、被告病院が前記認定の性格の病院であり、その所在する鹿角市は秋田県の東北部に位置し、急行列車で秋田市まで三時間、盛岡市まで二時間という辺境の地にあることをも考えると、被告病院付近においては、光凝固法が未熟児網膜症に対する確立した治療法として存在し、一般臨床医がこれを施用されることを前提として医療上の各種の義務を課せられるに至つていたと認めることはできないといわざるをえない。

前記認定のとおり、牧野医師は、昭和四〇年医師資格を取り、昭和四九年当時は九年の経験を有する医師であつたが、もともと産婦人科の担当であり、被告病院においては、小児科医師が欠員となつたため、昭和四七年九月から未熟児の看護保育をも担当させられ、昭和四九年三月退職するまでの間、四九名の新生児を保育器に収容し、うち二分の一の児に対し酸素の投与を行つたが、未熟児網膜症の発症をみたものは一名もなく(その中には生下時体重九八〇グラムの者もいたが)、殊に投与の酸素濃度が三〇パーセント以下ならば(四〇パーセント以下とする説も強かつたが)、まず未熟児網膜症の発症をみることはないというのも、現在ならばともかくとして、当時の産婦人科医としては水準的な医学知見というべきものであり、未熟児網膜症は生後二ないし八週間で発症するため、眼底検査は保育器から出した後に行えば足りると考えていたのであるが、原告浩子の場合には、酸素も低く抑えてあり、浩子の目も光に反応を示していたうえ、ちようど浩子が保育器から出るころは眼科医が海外出張の直前の時期に当たつていた等の事情もあり、眼底検査をする必要はないと判断し、退院前、保護者に対し、注意的に指示を与えたにとどまるというのである。

ところで、臨床医は確立した一般医療水準に従つて医療行為を行えば足りるのであるが、〈証拠〉によれば、昭和四九年五月、日本母性保護医協会が全国の五〇〇の病院の産婦人科主任医師に対し、未熟児網膜症についてのアンケートを行つたところ、三一八通の回答中、未熟児網膜症を知つたのはごく最近のことであるとするもの一〇・四パーセント(ちなみに、昭和四九年三月二五日岐阜地裁において、昭和四四年一二月生まれの児に発症した未熟児網膜症につき医師の責任を認める判決が言渡され、未熟児網膜症が社会的な大問題となつた。原告浩は、浩子が生まれる前から未熟児網膜症のことは知つていたと供述するが、これはにわかに措信することができない)、最初に未熟児網膜症について知識を得たのは新聞、テレビ等であるとするもの九・七パーセント、定期的眼底検査を知らないとするもの一〇・四パーセント(定期的眼底検査を知つているとしたもの、その知識はごく最近得たものであるとするもの二九・六パーセント)、投与の酸素は未熟児網膜症予防のため四〇パーセント以下としているとするもの三〇・五パーセント、未熟児の動脈血酸素分圧(PaO2)の測定をしていないとするもの六七・三パーセント(その理由として、設備がないとするもの六五パーセント、技術的に困難とするもの三二・七パーセント)、光凝固法装置がないとするもの八一・八パーセント、眼科医に定期的検診を依頼することができないとするもの三二・四パーセントという結果であつたこと、昭和四九年当時、定期的眼底検査を行いえた病院は全国的にみても一五〇に過ぎなかつたことが認められるのであり、前記認定の被告病院の人的物的な設備やその地域的立地条件、更に原告浩子の状態等をも考えると、そもそも牧野医師には、眼科医に依頼して、原告浩子に対し、定期的に眼底検査を受けさせる義務もなかつたというほかはない。

したがつて、いずれにしても牧野医師に眼底検査義務懈怠ありとする原告らの主張は理由がない。

なお、前記認定のとおり、退院後の時点において浩子の目が光に反応を示していた様子もうかがわれるから、或は未熟児網膜症の発症が退院後に生じた可能性も全く否定することはできないのである。

5  説明義務違反について

前記二において認定したとおり、牧野医師は、退院前に原告浩子の保護者に対し、注意的な指示をしたのであるが、すでに認定、判示してきたところによれば、牧野医師には、右指示以上のことを右保護者に説明、指示すべき義務はないというべきである。

五以上のとおりであつて、被告病院の牧野医師には、治療上の責任がないのであるから、不法行為、又は債務不履行を原因とする原告らの本訴請求は理由がなく棄却し、訴訟費用の負担につき民訴法八九条、九三条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官福富昌昭 裁判官宇田川 基 裁判官稻葉一人)

未熟児網膜症関係の文献一覧表

1 塚原勇ら「未熟児の眼の管理」臨床眼科二三巻一号(昭和四四年)

昭和四二年三月から昭和四三年八月までの間に、関西医大未熟児室に収容された未熟児一三〇例中、七例に未熟児網膜症が発症(発生率五・三八パーセント)した例を報告し、酸素濃度が四〇パーセント以下の場合でも発症しており、また生後平均四五・四日、酸素投与中止後平均二六日で発症、平均三・二月でなんらの治療もせずに治癒したとする。

2 田渕昭雄ら「兵庫県立こども病院における未熟児の眼科的管理(その一)」眼科臨床医報六五巻一二号(昭和四六年)

昭和四五年五月五日から昭和四六年四月三〇日までの間に収容された六六名の未熟児中、一九名に未熟児網膜症の発症(二八・八パーセント)をみたことの報告。酸素は四〇パーセント以下に制限している、光凝固法(二名)も行つているが、その結果は有効のようだが、適応などについてさらに検討を加える必要があるとする。

3 植村恭夫「眼疾患」(現代産科婦人科大系)(昭和四六年)

未熟児網膜症の解説を記述し、永田医師らの研究を紹介し、未熟児網膜症の確実な予防あるいは治療法はない、これを予防するには未熟児となることを避ける以外にない。治療法としては、副腎皮質ホルモン、ACTHの投与や光凝固法が行われているとする。

4 永田医師ら「天理病院における未熟児網膜症の対策と予後」日本新生児学会雑誌七巻二号(昭和四六年)

昭和三一年八月から昭和四五年八月までの間に出生の未熟児一六五例につき、未熟児網膜症の発症率は一五・二パーセントであり、在胎三二週未満、体重一六〇〇グラム以下、二週間以上酸素を投与したときは全例に発症したとする。また、五例に光凝固法を施行し良好な結果を得たほか、他院からの一〇例にも光凝固法を行つたところ、時期を失した二例以外は良好な成績を得たとする。

5 田渕昭雄ら「兵庫県立こども病院における未熟児網膜症の眼科的管理(その二)」(昭和四七年七月)

昭和四五年五月五日から昭和四六年八月三一日までに未熟児室に収容された未熟児九六名のうち三〇・五パーセントに未熟児網膜症が発症。Ⅰ期以上の変化をみた一六名のうち一〇名に光凝固法を行つたところ、八名につき良好な結果を得た。現在のところ光凝固法による治療が最も有効な治療であるが、光凝固法による網膜の組織学的変化が著しいことから、さらに器質的変化をきたさない治療法を検討する必要があるとする。

6 山内逸郎「未熟児の保育とその進歩」日本産婦人科学会雑誌二四巻八号(昭和四七年八月)

現在では、呼吸障害のある新生児には十分な酸素濃度を与えるようになつてきており、未熟児網膜症発症の可能性が問題となりはじめているとする。

7 植村恭夫「未熟児網膜症の予後」小児科一三巻四号(昭和四七年)

未熟児網膜症は在胎週数三二週以前、生下時体重一六〇〇グラム以下のものに発症しやすい。発症率は大体一〇パーセント前後であり、七〇パーセントは自然に治癒する。一〇〇例の未熟児を扱うと三例位の瘢痕例が出る。したがつて、光凝固法の対象となるのは三例位のものである。ただ、稀には発症して急速に網膜剥離に至るラッシュタイプもあり、未熟児網膜症や光凝固法についてはいまだ研究途上の問題もあるとする。

8 座談会「未熟児網膜症の問題点」(昭和四八年一〇月二四日)産婦人科の世界二六巻一号

未熟児を助けるためには酸素投与が必要だし、これと未熟児網膜症の関係について医師らが語つたもの。未熟児に対する眼底検査の困難性や光凝固法が目下追試中であるとする発言もある。

厚生省特別研究班の「未熟児網膜症の診断および治療基準に関する研究」の概略〈省略〉

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